予約の取れない自宅教室
~人気レッスンの魅力をレポート~

まるたか農園 高西タマ子

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高西 タマ子さん

 今月は趣向を変えて、沖縄の伝統野菜をつかった家庭料理づくりが体験できる、石垣島・まるたか農園に、高西タマ子さんを訪ねました。野菜の収穫から、料理体験、そして14品(他に絶品フルーツデザート付!)がお膳に並ぶタマ子さんお手製のランチまで味わえる盛りだくさんの内容。インタビューではタマ子さんの波乱万丈の人生にも迫ります。(毎週月曜更新)

掲載日:2010/06/28(月)

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――おいしいランチ、ごちそうさまでした! ここからはゆっくり、タマ子さんのお話を伺わせてください。
 
タマ子さん はいはい。おもしろい話はないけれど、いいですよ、アハハ!
 
――よろしくお願いします。まず、農園を見学して不思議だったのですが、石垣島は通年暖かいのに、どうしてビニールハウスが必要なんでしょう?
 
タマ子さん 本当はビニールはかけたくないんです。でも、ちょうど花が咲く時期に雨が多くて、ハウスは温度管理のためというより雨よけのために必要なんですね。雨が当たると花がつかないので。

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ハウスの中に張ってあるネットが防風用で、今の時期――花のつく時期だけハウスをビニールで覆って雨に備えています。5月に入って雨季が終わったら、ビニールは外して、外周もネットだけになります。
 今度は鳥よけね。小鳥が入ってくると芽から実からみーんな食べちゃいますから(笑)。
 
――(笑)鳥はおいしいものを知ってるんですね。 

タマ子さん 特にカラスは賢いですよ。パインもおいしいものから食べていきます。だから、カラスと知恵くらべです。

 ――ビニールを外すと言っても、ハウスが大きいから大変です。しかも10棟分ですから。

タマ子さん ハウスは1棟150坪あります。そこにマンゴーを50本ずつ植えたので、最盛期は500本。今は2棟を野菜用のハウスにして、他の棟でも老木になって枯れた木があるので、全部で300本あるかないか、だと思います。

 

戦争が終わり、台湾から引き揚げ船で…

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――タマ子さんのお料理は、うす味ながらパンチがあっておいしいですね!
 
タマ子さん 私の料理にはいろんなものににんにくが入るからでしょうか。煮物にもちょっと入れてます。幼少期を台湾で過ごしたからかもしれませんね。すごくにんにくが好き。
 小さい頃、私はのどが弱かったので、風邪をひくと父がかまどの灰ににんにくを丸ごと入れて、蒸し焼きにしたものをよく食べさせてくれました。
 にんにくは葉っぱまで好きですね。肉や豆腐と炒めたりしてもおいしいですよ。
 
――キムチもおいしかったですが、韓国に行かれたわけでは…。
 
タマ子さん いえいえ(笑)。でも石垣は昔、韓国と貿易をしていましたから、影響はあるかもしれません。石垣はほかにも台湾、中国、それから薩摩文化の影響も受けてきました。
 
――タマ子さんのお料理上手はお母さまゆずりなんでしょうか?
 
タマ子さん そうですね。母の料理はおいしかったですよ。
 私は2歳のとき、台北(台湾)に家族と移り住みました。

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――当時は台湾が日本(大日本帝国)だった時代ですよね。
 
タマ子さん そう。父は戦地にいましたから、母は1人で5人の子どもを育ててくれました。
 私は三女で、姉はもっと料理が上手なんです。以前、石垣でレストランをやっていたので調理師免許ももっているんですが、引退して、今は親戚の多い那覇で暮らしています。
 
――お母さまは戦後、5人の子どもを引き連れて日本に引き揚げていらっしゃった? 

タマ子 大変だったですよ。カツオ漁の船――ポンポン船と言っていましたけれど、小さな船で丸1日くらいかかったでしょうか。
 闇船でしたので、生きるか死ぬかもわからない。砂糖の袋がいっぱい積み込まれている陰に隠れて、息をひそめて。「見送りもいらない!」という切羽詰った状況の中、船に乗りこんで、すぐにシートがかぶせられたくらいです。
 沖に出てやっと、シートを除けて周りを見たら、海面が船のヘリから20、30センチのところにあって、体を少し伸ばせば手が洗えるくらい(笑)。
 
――船が沈みそうなくらい人や物を載せてたってことですね。

 

帰らないと思っていた父の復員

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タマ子さん 石垣にたどり着いたものの、終戦後でなーにもありません。
 内地の兵隊さんが上陸してくるのを見て母は、「まずは食べ物」と畑を開墾し、おイモを植えました。
 でも、おイモが実るまで4ヶ月くらいはかかりますからね。その間も、子どもたちを食べさせるため、母は農家に働きに出て、賃金の代わりにおイモをもらって。 

 台湾からお米と砂糖を少しずつ持ってきていたので、それをおイモに混ぜて食べていました。砂糖があるだけ、周りの人よりは恵まれていたんです。 

 そのころはまだマラリラがあって、砂糖はすごく大事な栄養源でしたから、ご近所で病気になった方がいると、薬代わりに少しずつ配ったりしてましたよ。 

 うちも、母と兄と弟がマラリアにかかって大変でした。悪寒で、布団を何枚重ねてかけても震えがとまらないんですから、怖かったですよ。高熱を下げるために、畳を上げて、竹組みだけにして、そこに芭蕉(バナナ)の幹を切って、縦半分にして――あれは木肌が冷たいですからそれを氷枕の代わりに使いました。
 冷たい井戸水をくんできては熱を出している人の頭にじゃんじゃんかけて。
 
 お医者さまも少なかったですし、自分たちで治すしかありませんでした。

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――大変な時代を生きてこられたんですね…。 

タマ子さん 戦争が終わると、兵隊さんが復員してくるようになりました。私も毎日、港に父を迎えにいくんですけど、父はどの船にも乗っていないんです。「あー、もう死んでしまったんだ」と思うしかありませんでした。 

 でも、昭和22年頃、最後の船でようやく、父が鹿児島から帰ってきました。
 その頃はもう家族は諦めて、迎えにも行かなくなっていましたから、父は1人でリュックを背負って家に戻ってきていました。 

 ある日、学校から帰ると、父が家の座敷に座っているんです。私はすぐにでも走って抱きつきたいと思いながらも、「お父さんが生きているワケがない」と自分に言い聞かせてきましたから、混乱して、家に入れないまま外で泣き出してしまって。
 母にうながされて中に入ってやっと、お父さん!と抱きついてねー。
 
 父は母と3人の娘たちに、中国からカメの甲羅のクシをお土産に持ち帰ってくれていました。
 
――過酷な道中に、そんなことにまで気を配るやさしいお父さまだったんですね。

 

意外に豊かだった食生活、その理由

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タマ子さん 父は復員後も、家族を食べさせるために一生懸命働きました。畑をずんずん開墾して、イモだけじゃなくて、麦や胡麻、もちきび、スイカなど、いろいろつくるようになりました。 

 それから、母の妹のご主人が英語が話せる人で、那覇でアメリカの食材を扱う商社勤めをはじめた関係で、スパムの缶詰にチョコレートに、食べたことのないものをたくさん送ってくれるようになったんです! おいしかったですね(笑)。 

 ベーコンや、肉の缶詰、全卵粉の缶詰も送られてきたので、それをサーターアンダギーに使ったり、カステラに入れたり。
 終戦直後で食べることもままならない時代に、うちはぜいたくな食生活をさせてもらえました。
 
――小さい頃から舌が肥えていらっしゃったから、今おいしいものが作れるんですね。 戦後の沖縄、特に離島での生活は、ご苦労も多かったと思います。 

タマ子さん 石垣島は田んぼがたくさんあって、お米がたくさんとれましたから、人頭税はお米で納めていました。朝鮮戦争のときは、石垣のお米は全部、兵隊さんの食糧として琉球王国から薩摩に上納していたんですよ。 

 農家は米をつくっても自分では食べてはいけないということで、食事はおイモばかり。(オヤケ)アカハチという人が、「農民は体があってこそ。栄養のある物が食べられなければ満足に働けない! 米を食べさせろ!」と琉球王にかけ合って受け入れられなかったことから、戦争にまでなったという話もあります。
 

第1世は打ち首を逃れ、波照間島へ

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――波照間島にオヤケアカハチの生家とされる家がありますよね。

タマ子さん そうですか。
 我が家の第1世は首里から波照間島に流され、島に住み着いたんですよ。でも、私自身は波照間に一度も行ったことがないんです。 

 第1世の女性は、政略結婚がどうしてもイヤだと断って下男と駆け落ち同然に逃げ出し、三司官(さんしかん。琉球王国の宰相職)から打ち首を言い渡されたそうです。
 でも名士の娘だったもので、「首を切るわけにはいかない。そうだ、波照間に流そう」ということで、下男と2人で島に送られて。
 第1世から数えて私で16代目です。系図も残っていますよ。
 
――これはもう、NHKの連ドラに十分なるスケールのお話です。すごい。 

タマ子さん 戦後、アメリカ軍から八重山民政府の知事に任命された吉野高善(よしのこうぜん)は親戚筋ですし、中国から琉球にタネイモをはじめて持ち帰ったのは野国総官(のぐにそうかん)ですが、それを石垣まで持ってきたのはうちの先祖なんです。 

――重要なお仕事をされた一族でいらっしゃる。
 
タマ子さん 先祖をたどって、波照間島に行きたいと思っているんですが、なかなか機会がなくて…。 

――でも、小浜島にはもずく獲りに行かれるんですよね(笑)。 

タマ子さん ええ、そうなの(笑)。小浜、竹富、黒島、西表は行ってるんですけど、鳩間島と波照間だけ行ってない。アハハハ!
 たぶん、機が熟したら行くことになるでしょう。 

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――お料理上手なお母さまのもと、タマ子さんも早くから台所に立っていらっしゃった? 

タマ子さん 実は私、あまり料理をしたことがなかったんです。姉がいたので、全部姉がやってくれて。私はただ見るだけ(笑)。
 
 母はお祝い事のたびに――今みたいにホテルやホールで祭事をする習慣はなく、家で宴会をしていたのですが、あちこちの家から声をかけられて、宴会料理をつくってまわっていましたね。母は天ぷらの係でした。
 
 私は23歳で結婚してはじめて、1人で食事をつくったくらいですよ。 

――えー!意外です。 

タマ子さん それまでも、おかずを1品だけつくったことはありましたけれどね(笑)。 でも、母や姉が料理するのをよく見ていましたし、味も舌で覚えていたので、あまり苦労はしませんでした。

  (次回へつづく)

インタビュー=深澤真紀(タクト・プランニング
テキスト=橋中佐和(タクト・プランニング
写真=下村しのぶ

 

プロフィール

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高西 タマ子(たかにし たまこ)さん

まるたか農園で昔なつかしいあっぱ(母さん)の沖縄の伝統料理の味を伝授。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まるたか農園

住所 石垣市登野城2151-5 
電話 0980-83-1665
*3日前までに要予約料金 
一人2500円(12~14時。昼食付き)

 

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